一般社団法人日本アイスクリーム協会

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日本のアイスクリームの歴史

アイスクリームの工業化

アイスクリームの工業化

大正時代も半ばになると、日本でもアイスクリームの工業化がスタートします。それまではレストランでしか食べられなかったアイスクリームが家庭でも食べられるようになり、さらにカップアイスの登場で普及に拍車がかかります。昭和10年代には自転車にアイスボックスを積んで売り歩くアイスクリーム売りが現われ、日本の夏の風物詩にもなります。

アイスクリームの
工業化がスタート

日本でアイスクリームの工業化がスタートしたのは大正9年(1920年)、東京深川にあった冨士食料品工業(現在森永乳業グループの冨士乳業)のアイスクリーム工場です。米国製アイスクリームフリーザーを導入し、工業的にアイスクリームの生産を開始しました。

次いで大正10年(1921年)に、現在の明治乳業の前身である極東練乳三島工場でも工業生産が始まります。そこででき上がったアイスクリームは三越などの高級店で販売されていました。その後、アメリカでアイスクリームの製造技術を学んで帰国した佐藤貢は、北海道札幌の自助園農場(後の雪印乳業)で「自助園アイスクリーム」の製造を始めます。

「ブリックアイスクリーム」 日本で最初に駅売りされた極東練乳の「ブリックアイスクリーム」。アイスクリームを経木の折に入れて、沼津駅で販売しました。
「自助園アイスクリーム」のポスター 市販の本格アイスクリームのはしりとなった「自助園アイスクリーム」のポスター。チョコレート、ストロベリー、レモンの三色アイスクリームで、日常のオヤツよりおもてなしのデザートとしての需要が高かったようです。

ブリックアイスとカップアイス

大正12年(1923年)に発売された人気商品「自助園アイスクリーム」は、チョコレート、ストロベリー、レモンの「3色アイス」でした。その後、「ブリックアイスクリーム」として売り出されます。この3色は今でも3色アイスクリームの基本色です。

またアイスクリームの定番商品、カップ入りアイスクリームは、雪印乳業で昭和10年(1935年)に製造が開始され、その後のカップアイスの先駆けとなります。

昭和8年頃の雪印「ブリックアイスクリーム」 昭和8年頃の雪印「ブリックアイスクリーム」
昭和14年のロータリー式充填機によるカップアイスの包装。手前にカップ詰めしたアイスクリームが並んでいます。 昭和14年のロータリー式充填機によるカップアイスの包装。手前にカップ詰めしたアイスクリームが並んでいます。

戦中戦後のアイスクリームと
アイスキャンデー

昭和16年(1941年)に始まった太平洋戦争で、酪農生産物のほとんどは軍用物資として徴用され、アイスクリーム製造はすべて中止されます。

戦後、すべてが焦土化した中で、いち早く復活したのがアイスキャンデーでした。店頭に1~2馬力程度の冷凍機を置き、水にサッカリンなどの甘味料などを混ぜたものをブリキの氷結管に入れ、割りばしを挿して凍らせただけのもので、昭和25年(1950年)頃まではこのアイスキャンデーが全盛でした。

昭和27年(1952年)、雪印乳業がソフトクリームミックスを使い、アイススティックの製造を開始。固いキャンデーに比べ、ミルクとバニラのなめらかな食感がアイスキャンデーに取って代わり、次第に時代はアイスクリームへと移っていきます。

小銃の銃床に使用したくるみ材を利用して作った「アイスキャンデーボックス」。昭和23年頃に実際に売られていました。 小銃の銃床に使用したくるみ材を利用して作った「アイスキャンデーボックス」。昭和23年頃に実際に売られていました。
ドライアイスを入れて使う魔法瓶タイプのアイスクリームストッカー。昭和20年代に使われていました。 ドライアイスを入れて使う魔法瓶タイプのアイスクリームストッカー。昭和20年代に使われていました。

アイスクリームの宣伝と広告

日本のアイスクリーム広告は、明治12年「東京日日新聞」に載せた米津風月堂に始まります。しかし、その後昭和20年代までは、アイスクリームは「夏だけの冷たいお菓子」という時代が続き、メーカーの宣伝もその夏のメインの商品を告知するくらいのものでした。

ところが東京オリンピックを境に事態は一変。アイスクリームは宣伝の時代に入りました。商品のイメージアップにタレントを起用したり、商品の訴求も単なる「夏の氷菓子」から「高級」「大人のデザート」などさまざまに広がっていきました。

アイスクリームの宣伝と広告

昭和29年の「赤」「青」「黄」カップアイスのポスター。当時のヒット商品でカップの色は乳脂肪分の違いです。